言いたいことがある

好きなことについて語りたいだけです。

働き始めた

無職期間半年を終え、新しい職場で働き始めて早2ヶ月。本当にこの職場で良かったのだろうか?と自問自答する日々が続いている。だっていよいよ、ここから生活レベルが変わり始めている。頑張って積み重ねてきたものの結果が出始める頃。今の職場にいても思う。私って今まで積み重ねてきたもの何もなかったの?これができるって、自分に自信を持って言えるものが何もない。営業も、新人教育も、採用も、いろいろしてきたけど語れるものは何もない。やっただけ。得たものは何もなかった。

何もない人間は、これから何かを得ていかなければ周りと差がついていく一方だろう。収入も、技術も。だからこそこの転職はもっと慎重にするべきだった。思いつきでやめるべきではなかったし、次の道ももっとやりたいことやこれからどう生きていきたいかを明確化させてそれに合う職場を選ぶべきだった。お金がなくなって給付金が切れたタイミングでなんとなく受けてたところから合格もらったからちょうどいいやここにしようみたいなまぁ〜意思のない決め方をしてしまった。

でもそうやって生きてきたから今更頑張り方なんかよく分からないのだ。受験勉強もやってはいたがダラダラしてる時間の方が圧倒的に長かったし、社会人になっても休みの日に勉強とか絶対できないし自分から能動的になれるような趣味もない。この怠惰で内弁慶な性格さえなければ、ギターもしてみたいし絵も描いてみたかった、ダンスももっとしたかった、字を綺麗に書く勉強もしたかった、英語の勉強がしたかった、小説を書いてみたかった。今からでも遅くないという言葉は嫌というほど聞くが、ない気力を振り絞ってまで打ち込みたいものがない。じゃあ働かなければそういった気持ちが生まれるのかな?と思って仕事を辞めてみたけどそんなこともなくて絶望した。結局何もせず無職期間が終わってしまった。

 

自分を変えたい。昔からずっと思ってた。自分を変えるには行動するほかないということも分かってる。頭では分かっているのに何もする気が起きない。スマホをいじって1日が終わる。ていうか元凶はネットなのだ。小学生の時に触れてしまいそこからどんどんのめり込んでしまった。もはやネットしかできない。情報を受け取るばかりで、自分から何か生み出すことができなくなってしまった。何も浮かんでこない。こんな悲しいことあるんだなぁ。ネットを手放すことがまず最初にやるべきことなんだろうけど、そもそもそんな強い意志がない。そんな強い意志あればこうなってない。

たぶんADHDスマホの相性って最高なのだ。瞬間的に快楽を味わえる。長くコツコツなんてそんなの待ってられない性分の身としてはすぐに快楽にたどり着けるスマホはもうアドレナリンドバドバだ。ほら、そうこうしてるうちに休みが終わる。今日頑張ったことは洗濯物干しと1週間分のお弁当作りくらい。ああ、眠くなってきた。やりたいことあったけど結局何もできなかった。

 

いつもいつも、できない自分を責めてる自分がいる。行動できない自分に嫌悪感を抱いている。仕事ができない自分が嫌だ、頭の悪い自分が嫌だ、何も持ってなくて人並み以下の自分が嫌だ。自分のことを好きになりたい。好きになれるくらいの努力をしたい。人ともっと上手におしゃべりできるようになりたい。人よりもできることが少ない。こんな自傷やめたいのに自分に満足いってないからどうしようもない。堂々巡り。いつも同じこと考えて同じことで傷ついてる。傷つくだけで何も改善しようとしない。そりゃ何にも変わらないよ。自分と向き合うのが怖い、空っぽの自分が受け入れられない。これでいいと思えない。

 

こんな人間が偉そうに就職のことを語ってると思うと反吐が出る。よく同じ部署の人たちが生徒に対して意見を述べることがあるけど、笑えるくらい自分に刺さるのだ。歳は違えど彼らと同じステージにいるんだ。同じステージにいるくせに上からアドバイスしてんだ、滑稽にも程がある。でもそれが仕事だからってやってはいるけど心が死んでいく。事務作業だけやっていたい。未内定の子達の気持ちがすごくよくわかる、わたしもできないのにできないことを責めて、なんでできないの?って思うの本当にしんどい。

 

はーーーーーー、もういいや全部がどうでもいい。明日からまた仕事が始まる。怖い。人間が怖い。何もしてないのになんだかみんなが冷たい気がする。働きたくない。

 

 

いろんなことがあった

久々に書こうと思う。本当は書きたいことがたくさんあった。仕事を辞めたこと、ADHDのグレーゾーンと診断されたこと、集団プログラムに通っていること、無職期間のこと、転職のこと、足の捻挫のこと、二重整形、歯茎の手術のこと。いろんなことに対していろんな気持ちを抱えてたわけだけど、それを正確に文字にできる気がしなくて避けてた。(あと面倒だった)でも私はこの気持ちを文字にすることで、未来の自分に何か残せるのではないかと思っている。私は昔から自分が書いてたブログを読むのが好きだった。今もブログとかツイッターとかついつい過去のものを遡ってしまう。だからきっとこうやって形に残すことは決して悪いことではないんだと思う。

 

まずは仕事を辞めた。ボーナスはもらって、教育担当の引き継ぎを…って考えたら12月末退職が妥当かなと思って辞めた。いろんな気持ちが積み重なって積み重なって辞めるに至った。うまく言葉にできないんだけど、今の会社での手探り感がしんどかった、営業も特に楽しさやりがいを感じなかった、めちゃくちゃ嫌いな同期がいた、教育担当が難しくて向いてないと感じた、長時間運転がしんどかった、働いていて楽しくなかった… 逆にいい面もあった。融通きかせてスケジュール組めるしわりかし自分本位で動けるし給料やボーナスも多くはないが少なくはなかったし定時で帰れたし休みも120日あった。(勤務時間8.5時間だったが…)

条件面と気持ちの面でずっと天秤にかけて揺れていたが、ついに気持ちの面の方が重くなった。これはADHDの気質があると知ったというのも大きいかもしれない。もっと自分が苦しまず楽しめる仕事が他にあるのではないか?と思ったから。(ADHDは興味あること、ないことの差がめちゃ激しい)

辞めてみると収入は無くなるし暇な時間はできるしで結構憂鬱になる。その反面、自分のペースで家事をすることの豊かさも知る。料理のやりくりも楽しい。まーー本当に、人間はないものねだり。永遠に。仕事してたら休みが欲しいし、休みだけだと不安になる。面倒な生き物だ。

 

転職活動は在職中の9月〜12月までしていたけど、落ち続けるから辞めた。あ、ひとつだけ内定出たけど蹴ってしまったんだった。放デイの指導員の仕事。やっぱりどの仕事も「自分に向いてるのか?」という疑問がむくむくと出てくるので面接も腑に落ちてない形で落ちるし、受かってもこの仕事できない気がするで蹴ってしまうし。どこまでも自分の特性が曖昧で自信がない故に手探り状態。今も。何がしたいのか?どんな仕事なら特性を活かせるのか?無職期間に何か見つかると思ったけど特に見つからず、のんびりとした日々を過ごしているが、そんな日々のどこかしらに何か落ちてるかと思ったけど落ちてなく。マンガや本でよくある「本来の自分に出会う」展開が待ってるかも!って思ったけど何も待ってなかった。まったり過ごして何にも考えない日々に何か見つかるきっかけなんかあるわけなかった。なので今もなんもせずご飯作ったり洗濯したり空いた時間はスマホいじったり動画見たりそんな日々を過ごしています。

 

行動しなきゃ何も始まらない、とよく言う。その通りだと思う。その通りだと思っていろいろ行動してみたが、思うように結果に繋がらないのは私は1の行動しかしてないからなんだと思う。行動にはステップがあって、えいやと飛び込んでみて、そこから自分なりにこなして何かを掴んでいくものだと思うのだが、わたしはえいやと飛び込むまではできる。(これはえらいね!)ただそこで終わる。飛び込んだことに満足して、そこから何かを得ようという貪欲な動きを全くせず特に試行錯誤することもなく流れに乗ってふよふよしているだけ、またはスタート地点付近で諦めることが多いので行動には移したが特に何も得ていないさわりだけやる女で終わっている。

最近でいうと、精神科で行われている発達障害の集団プログラム。それに参加したら何か得れるかもと思ってえいやと参加してみた。いろんな人がいて発言したり発言を聞いたりしていると「そんな考えあるんだ」と思ったり嬉しい言葉をかけてもらえると「嬉しいな〜」となったりするので意味がないとは全然思わない。ただ私はそこで得たものをその場で終わらせてしまう。実践していこう!という気力がやる気が全くない。その場ではなるほど!と思うが家に帰ったらそれを実践してみようとかその時のやる気は一切なくなる。持続性ゼロ。ここで自分を変えようとする人は言われたアドバイスを実践してみて、良くも悪くも気づきを得て自分の成長につなげるんだと思う。私は根っからのひねくれ人間なので「自分を褒めてあげる!」や「自分の好きなことを探してみる!」みたいなアドバイスに「分かってるわ。それができたら苦労しねえよ」と唾を吐いてしまうのだ。こんなやつ絶対成長しねえ!でも、本当に、今の自分を褒めれるところなんてないし、褒めれるだけの努力を私はするべきなんだと思う。何か成し遂げたことがないと、上辺だけ誉めていたって自分が満たされないのは分かってるし自分のことだってきっと認めてあげれない。本当は生ぬるい言葉かけてもらわなくたって分かっている。私は失敗を恐れずに何でもいいから何かに打ち込むべきだ。そこから得るものが自信につながって自分を褒めることができるのだ。今の自分を無理やり褒めてみたって、結局何も変わらないのは分かっている。そんなの上辺だけの慰め。分かってるのに動けないから悔しいんだよなあ。

プログラムで「リフレーミング」というものをしたときに「自分の性格を違う言い方してみよう、違う角度から見てみよう」という取り組みをした時は面白かった。私は上記のこともあり「努力ができない」という点を挙げてみた。そうすると、鋭い意見として「なんだかんだ今の状況に満足している」という言葉が突き刺さった。たぶんそう。努力云々とか言ってるが、今のダラダラする生活が大好きだしネット大好きだし努力なんかだいっっっきらいだ。この生活のままでいていいならそうしたい。結局のところ、努力できない自分が受け入れられないんだろうな。成長しなきゃとか、将来の自分のためにスキル身につけなきゃとか、そこが先行してるのに努力できないから苦しいんだろうな。「努力する必要ある?」って言葉ももらったけど、まさに。努力しなきゃいけないと思い込んでる私にこの言葉も刺さった。

他にも自分のモットーを決めるというので今の自分、これからの自分、そうなるためのアドバイスを他の人からもらうという取り組みましたんだけど、他人軸でなく自分軸で生きたいという悩みに、正直「そうすればいいのか!」みたいなアドバイスはなかったが、「顔可愛いですよ!(顔にも自信がないという言葉に対して)」「話してると癒される。それは持ち前の良さだと思う」「すべての言葉に対してすごくわからなと思った。自分もよく自己否定をしてしまうから、長いことそうしてきた分無理矢理にでも自分を褒めるしかないんじゃないか」という自分に対する肯定や共感の言葉がものすごく嬉しかった。癒されると言ってくれた人は、「(私)さんがネイルするのがストレス発散っていうのを聞いて、私もしてみたんです!」って見せてくれたのもすごい嬉しかった。こういうことか、とも思った。こういう人が「行動に移せる」人なのか、と。私はその場しのぎで「〇〇さんのストレス発散方法いいと思ったので実践してみます」とかなんとか行って、そんなん効果ないだろって鼻から決めつけて忘れてたけど、その人は「やってみよう!」ってチャレンジできる人だから、話を聞いてても何事もチャレンジして今を楽しめてるんだなと。私は言い訳ばっかして結局変わる気もないから1の行動で満足してその先は何にもしない。だから得るものもない。やったことに満足して家に帰ったら忘れてしまう。正直こんな自分から変われる気はあんまりしないんだけど、少しは変わりたいと思う。

 

変わりたいと思って無職を期に手っ取り早く二重整形や歯茎の再手術やシミとりをしてみたけどどれも「やってよかった!」みたいな感動も生まれず。「うーん。やっぱり自分ってこんなもんか」と落胆。二重は腫れがまだ引いてないのもあるけど変わりはしたが素敵になったか?と言われると濃い線がついただけ、だし。歯茎に関してはやっぱり口輪筋の筋肉強すぎて笑ったら見えるし。シミ取りはすぐ終わらないからまだ取れてないし。自分を好きになるためにやったのに結局自己肯定感は上がらなかった。むしろダウンタイム中は無職も相まって情緒不安定の極みだった。何にも前向きになれることがなく、憂鬱な毎日だった。二重手術も麻酔されてるとはいえ意識はあるから瞼縫われてるの想像したら気分悪くなってきたしその分力入って内出血するわ腫れるわで散々だったな。

 

そんで極めつけは捻挫。これが正直いっちばんメンタルやられた。改めて体の健康=心の健康だと実感。どこかに不調がある状態で心の安定は保たれない。何を血迷ったか海外旅行の1週間前にボルダリングして高いところから落ちて足首捻挫するという。もう骨折しててもおかしくないくらいの落ち方だった。今思い出してもヒヤッとする。もう自分がアホすぎて深夜にワンワン泣いた。これもやりたいことを抑えられない特性から来るのか?自分のアホさや思慮のなさを全部ADHDのせいにしたかないけどそう思ってしまう。旅行前だから我慢すればよかったのに、やってしまった。ボルダリング、やってみたかったのだ。実際壁を登るのは楽しかったからこそ、こんな形で終わってしまったのも悲しい。やってみたかったボルダリングはトラウマが、旅行は延期、整体費用や飛行機の変更手数料、失ったものが多すぎるよ…。これも次への糧にするぐらいの気持ちがないと立ち直れないと思って、いい整体見つけれたな…次からは旅行前にアホなことせんとこ…自分で足首に包帯巻けるようになったな…とか一生懸命考えたけど、どう考えても失ったもの>>>>>>>>>>>得たもの過ぎて泣けてくる。

しかも本当に足が痛いと気分が滅入ってくるのよ。何にもする気分は起こらなくて無気力になるし出かけようにも出かけれないし。健康のありがたみをしみじみと感じる。そう思うと、健康であることだけでもう何もいらないじゃん!健康であることがなによりの幸せだよ!という気持ちも生まれてくる。まぁ仕事すると心の健康が保たれるかという疑問が出てくるけどな…

 

とにかく今はそんな感じです。旅行が延期になったので、この空白期間を何かしら意義あるものにしたいけど足が痛いからあんまりやりたいことも湧いてこないという時間だけ持て余した無気力人間の完成です。最悪ー!このブログ書くのに1時間かかった。手が何回か痺れた。

とりあえずドライヤーして寝ます。明日は美容皮膚科行こうと思います。シミ取りの経過見てもらおうかな。あと0時までに寝るようにしたいと思います。思ってるだけです。それではおやすみなさい。

 

 

 

 

他の心療内科へ行った

病院で重度のADHDと言われ、投薬治療だけでなんだかしっくり来ず、別のクリニックに今日初診を受けた。午後からだったので午前中は仕事をする予定だったが、みんなからいじめられるという最悪な夢を見て完全に気持ちが萎えてしまった。人からの拒絶や嫌悪ってなんであんなに怖いんだろう。人から嫌われても平気って言う人本当にすごい。言葉に出されなくても態度だけでもしんどいのに。言葉なんか言われたら尚更だ。まぁとにかく夢とは言えHPを朝からめちゃくちゃに削られたので休んだ。そして寝た。また変な夢を見て、睡魔で重い瞼をどうにかこじ開けようとしてる夢を見た。いや、夢じゃなかったかも。そんで12時になったので、お昼ご飯を食べて歩いて駅に行きクリニックへ。久々に車に乗らず歩いたが超しんどかった。

 

クリニックでは話を聞いてもらって採血をした。病院の先生もそうだったが、こちらに寄り添うというよりは普段の様子や過去の様子を矢継ぎ早に聞いて様子を伺ってる感じだ。(当たり前か、人も待ってて時間もないんだろうし)

自分のことを聞かれながら、自分のことあんまりちゃんと分かってないな〜と思う。いつも回答が曖昧になってしまって、自分の意図が正しく伝わってないような気がする。聞いた話の印象と過去の検査結果から、ADHDの中でも不注意に特化していて、ASD特有のこだわりや対人関係の不器用さが見えるグレーゾーンな気がすると回答があった。知能検査では作動記憶だったかな?が100を超えてるから、ADHDはここが低くて忘れっぽさに繋がるらしいが私はそうではないらしい。そこで少し繋がった。わたしは特に約束をすっぽかすなどをほとんどしたことがなかったからだ。納得がいく。

今後は重複するが、再度知能検査とADHDASDの検査をすることになった。クリニックだからかしらんがめちゃくちゃ値段が張りそう。恐ろしや。金ばっかなくなるのだ。必要経費だと思いたい。

 

最後に採血をして帰った。なんでも何かの病気から心理的な問題に繋がってる可能性もあるからだそう。これは大いに納得。だって体が元気じゃないと心も元気じゃないもん。体と心は比例してるだろうから、その可能性も十分にありえるなと思った。お金はかかるし時間の融通も効かなそうだが、わたしのこの生きづらさの原因をここなら突き止めてくれるかもと少し期待の気持ちを抱いている。

 

ぼちぼち気長にやっていこう。とりあえず今日は、お風呂から。洗濯物を干そう。ご飯も簡単だけど作ろう。そんな日だった。

 

 

夏フェスが楽しみすぎて2022

夏フェスが近づいている。しかも有名なあの、ロッキンだ。ロッキンに俺は初めて行くのだ。

 

もともと音楽やバンドが好きなのでフェスも大好きなのだが、体力がないのとフェスに行くような友達がいなくてあまり行ったことはない。音楽の髭と、モンバスだけ過去に行ったかな。あんまり記憶にないけど、すごく楽しかった気がする。

そしてコロナになりフェスどころじゃなくなって2022年夏。今年も別に行く予定もなかったし全然気にしてなかった。なのになぜ行くことになったかと言うと、発端は9mmである。久々に聴いてめちゃくちゃかっこいいなー、ライブとかもうやってんのかなーとオフィシャルサイトを覗いたら、なんとロッキンに出るではないか。9mmが出る8月11日、どれどれ他のアーティストは……

 

!!!!?!!!!?!!!!!!!!

 

衝撃だった。私のためのフェスか?と言いたくなるくらい。BUMP OF CHICKEN(私の青春)、クリーピーナッツ(最近ハマった)、indigo la EndTHE BACK HORN(あまり詳しくないが刃むちゃくちゃかっこいい)、9mm(先述の通り)、マキシマムザホルモン(好き。かっこよすぎだろ)、sumika(いい曲多いよね)などなど… とにかく私のためのフェスなのだ。興奮した。興奮しかなかった。気づいた時点で先行は終了しており、リセール期間だった。ダメ元で一枚申し込んだら当たった。神よ。そしてそしてダメ元でBUMP OF CHICKENの前列申し込んだら当たった。神よ!!

もちろんコロナの不安はある。今もなお感染者は増え続けてるしロッキンの参加者もコロナでバンバン欠席してる。indigo la Endも欠席になってしまってしょうがないがショックだった。明日も我が身である。それでも行けなかった時間、後悔は誰も返してくれない。自己責任だ。コロナにかかっても、全部全部。だれも責任取ってくれねーなら私が行くしかない。コロナになったらごめん会社。一応16日まではどこも行かず大人しくしとくからさ。会社行く前にPCRも受けるからさ。行かせてくれ。

 

というわけで準備をしているところである。なんだかんだ色々揃えてしまった。お金は飛んだが後悔はしてない!当日の服装もオッケー。飛んでも携帯落ちないようにチャック付きのズボン。ベルトループ付き。レギンスもキャミソールも冷感。そして暑さ対策、熱中症対策もバッチリ。ネックフォンにキャップ付きタオル(冷感)にサングラス。塩分タブレット。宿も二泊分取れたし、同じ宿だから荷物も置いて行ける。会場から少し離れた駅だからコンビニで飲み物売り切れとかそういう心配もたぶんない。あと使うか分かんないけど大人用オムツも買った…。わくわく。

 

あとは当日のご飯と,タイムスケジュールだな。優先順位つけなきゃ!当日の動きもシミュレーションしとかないとな。あああー、楽しみ。聴いたことないバンドも事前に聴いておこう。優先順位が変わるかもしれない。ナンバーガールとかめちゃくちゃ有名なのに聴いたことないんだよなあ。あーー、そわそわそわ。会社の休みも取ったので、私は無敵である。とにかく胸が躍っている。こういうことのために、お金稼いでると言っても過言ではないよね。やっぱり、楽しみがなくちゃ。コロナなのは十分承知の上なんだが、やはりコロナだからって何でもかんでももう我慢できないよ。保証もない中で、貴重な時間を何もせず諦めていくなんて、そんな行儀のいいことはできない。だって生きてるから。わくわくすることが欲しいから。仕事のために生きてるわけじゃないから。

 

そんなことを考えながら準備しています。あと少し。万全の体調で臨みたい。うっす。

 

CAARSとAQを受けた

眠れないのでブログ書く。

前々から自分はADHDの気があるんじゃないか?なくてもグレーゾーンにいる気がする。あとは愛着障害(恐れ・回避型)も持っている気がするという気持ちがあった。仕事でのケアレスミスや,ぼんやりして集中力が続かないことがあったりする。また、人間関係において人との関わりを強く求める反面、人と関わって傷つきたくない人の目を異常に気にしてしまうという性質がどうも生きにくいなあと感じていた。ただ分かりやすくネグレクトや虐待されてたわけでもないしいわゆる毒親にも当てはまらないんじゃない?とは思ってたのでなんでこんなに普通に育ててもらったのに自己肯定感高くないんだ?むしろ自信ないんだ?と疑問だった。

 

ずっとしてみたいなあと思いつつダラダラ時間だけを過ごしてしまいやっと検査をこの前受けて、七夕の今日に診断結果をもらった。結果は重度のADHDだった。ASDの特性は見られなかった。それにプラスして、親からの愛情を受けるべき多感な時期に父親が躁鬱になって母親が苦労したことが要因で心の成長がうまくいかなかったことから抑うつ状態が続き自信がない状態が続いてるのではという結果が出た。

 

カウンセリングでは自分でも気づいてなかったことが分かった。どうやらこの自己肯定感の低さや自信のなさは父親の躁鬱が関係してたらしい。言われるまで気づかなかったけど言われてみれば中学一年生の時はそこまで自己肯定感は低くなく学校生活を楽しんでいたように思う。中2で父が躁鬱になってから、私は今後どうなるんだろうと泣いてお母さんに大丈夫だよと言ってもらった記憶はある。そこからいつもと違う父が怖くなって、お母さんも精神的にも金銭的にも苦労しててそんな中で子どもも3人いるから家事も大変で自分がその立場になったら心の余裕なんか持てねえよ!って感じの環境だったと思う。私も私で嫌だな〜とか辛いな〜みたいな気持ちはあったがあんまり覚えてなかった。だから母も父も責める気持ちはないが、先生からの話で「そうか、当時の私は自分が覚えてないだけで相当心に負担がかかっていたのかもしれない、親の愛情をもっと受けたいと思っていたのかもしれない」と当時の自分をヨシヨシしたくなったし、仕方のないことだったんだ、私が辛いのは誰のせいでもなくてどうしようない環境のせいだった(躁鬱になってしまったのは仕方ないし、母の心に余裕がなくなるのも当たり前のこと)と分かって涙が止まらなかった。まぁこのカウンセリング受けた時期が情緒不安定期だったのもあるんだが。とにかくそこで本来するべき心の成長がうまくいかなかったらしい。ほ〜なるほど。合点がいく。だてに精神科医じゃないと思ったね。(何様)確かに子育てが終わって父親の状態も落ち着いてきた今の母はとても穏やかで楽しそうだ。昔のようにイライラしてる風には見えないし、私が仕事で悩んでいた時わたしに寄り添った言葉をくれた。本来こういう人だったんだなあと社会人になって改めて思った。母は愛情を注いでくれない親だったのではなく、環境が人を変えてしまう。私が母の立場だったらいつもニコニコ穏やかになんてきっとできない。今なら分かる。だが、父親が躁鬱になってなかったら今の私はもっと生きやすかったんだろうか。そんなの言っても意味がないことだけど。

 

ちなみに診断が出た今日はわりと安定期だったので結果にもそこまで衝撃を受けず。なんなら不安定期に受けたが故「自分がADHDの思考寄りで答えてしまったから重度という結果が出たのでは?」という疑念を持った。CAARSはADHDを測るために一般的に使われている検査なのでもちろん疑ってはないが、回答する自分が寄せにいってしまった感が否めない。なぜなら診断した時に何か言われた動作をするとかではなく、質問に対しての四択の解答だったからこんなん寄せにいけば誰でもADHDって診断されるんじゃね?と思ったからだ。分かりやすく動き回ったり感情が抑えきれなかったりミスはするが忘れっぽさはたまにで約束の日をすっぽかすなんてことは今まであまりなかったので、重度と言われると「?」なのだ。ADHDと言えど人によって性格も異なるのでみな同じ症状じゃないということは百も承知だが、重度と出るほど日常での困り感はない。もちろん仕事できねえな〜というのは感じているが怒られたりとかは少ない。(上司が緩いだけ?)こだわりが強かったり自分が気になる部分に関しては考えすぎてしまうという特性があるなというのは感じてはいるが、もっと困り感が出るのは人との距離を上手に縮められない、周りと比べて劣等感を感じてしまうという方が仕事をする上では困り感が強い。ただ、もしかしたらADHDという気質があるからこそ健常者の他人より劣っている気がしているのもあるかもしれない。無関係とは言いにくいのかも。

 

ということで今の現状にどうアプローチをかけるべきか悩む。先生はADHDに関しては投薬治療、自信のなさなどについては対処法はこれといってなく自分が役に立てている実感を得れるようにするというめちゃくちゃ抽象的な言葉をいただいた。私はもちろんADHDの気質も軽くできるならしたいが、それよりも後者の自己肯定感の低さをどうにかしたいと思ってるので、「え?そんな抽象的な感じなの?そこに対して行動認知療法とか、そういうのはしてくれないの?」と思ってしまった。とりあえず薬はもらって帰ったが。重度のADHDという診断が降りたとて、はて、どうしよう。という感じだ。診断が降りただけで何かが変わったわけではない。私は私のままで生きていくしかないわけで。とりあえずセカンドオピニオンが大切ということで認知行動療法とかもやってるとこに予約入れてみることにする。8月以降じゃないと初診受けれなくてガビーン!って感じだけど気長にいこう。そこはCAARS以外の検査方法とかもしてるみたいで,今回のことも踏まえた上で相談してみよう。という結果に落ち着いた。

 

だからまだ家族や恋人や会社の人に言うのは憚られるな。さすがに二つ目のところでも重度のADHDと出たらその診断を信じよう。そして恋人には言おう。家族は……心配するだろうからあんまり言えないな。会社の人はそういう色眼鏡で見られそうだから言いたくないな。

 

そんな感じの日でした。

明日早いから寝る。

 

 

波がある

私は気分の波が結構激しく、やる気のあるないも激しいため毎日コツコツというのがとても難しい人間である。

 

だけど今日は妙にいろいろできる日だったのでこんな日はとことんやる方がいい。(やる気ない日は何もしないから)

朝起きて、トイレ掃除と掃除機と一階、二階のクイックルワイパーと洗濯物を畳んで回して干した。ついでに昼ごはんも作った。どうした?スゲーやる気じゃん?

そんで昼ごはん食べた後は彼氏と靴箱の整理、服の整理をした。お互いいらないものを断捨離し、それを古着屋さんで売るために外に出た。

 

そこからの私もすごかった。

古着屋さんで買取してもらい、待つ時間があるからその古着屋さんで少し物色し、アウトドア用のスカートを購入。よくキャンプに行くし色合いも可愛いと思って買ったがエルサイズだった。ちくしょー。そして近くのニトリに行き、ずっと買わなきゃと思ってた珪藻土マットとランチョンマットと壊れてしばらく経ってたのでご飯茶碗などを購入。珪藻土マットは硬いやつだと割れるのでフニャフニャになってふ珪藻土マットがあったからそっちを購入。フニャフニャだから吊るして干せるしええやん!!

そしてまだ終わらない。図書館にも行ったのである。1時間ぐらい滞在した。ああ、図書館ってなんであんな楽しいんだろう…。あんないろんな種類があるけど、私はもっぱら小説しか読まない。この作家さんいいなぁ〜とかなんとか見ながらどれを借りるか悩んだ。柚木麻子さん、道尾秀介さん、角田光代さん、瀬尾麻衣子さん、姫野カオルコさん、窪美澄さん、朝井リョウさん辺りを中心に見てた。悩みに悩んだ末,柚木麻子さんの「本屋さんのダイアナ」、角田光代さんの「8月の蝉」、窪美澄さんの「ふがいない僕は空を見た」の三冊を借りた。窪美澄さんはよるのふくらみが読みたかったんだけど、なかった。8月の蝉は映画化もしてて泣けるそうだからずっと読みたかった。本屋さんのダイアナは明るいイメージがあって選んだ。作家さんってめちゃくちゃいらっしゃるのに、私はめちゃくちゃ読む範囲が狭いので少し広げたいが、誰が私にヒットするのか分からず,いつも好きな作家さんを選んでしまう。

 

帰りは買取金をもらいに行き、スーパーに寄ってゴミ袋やカップ麺を買ってやっと帰ってきた。帰ってきてからも、お風呂に入りながら借りた本を読み,風呂から上がったら顔の毛を剃って爪を切って整えて透明のネイルも塗った。そこから彼氏が起きたので一緒に晩御飯を作った。ピーマンの肉詰め。

そして今に至るわけだが、振り返ってみて行動力にちょっと引いてる。(当社比)明日からの会社で燃え尽きそうだな。とりあえず寝なきゃなのに。寝よう。寝たほうがいい。きっと私はものすごく疲れていると思う。

 

おやすみなさい。

 

 

どうしても生きてる

朝井リョウの「どうしても生きてる」を今読み終えた。5/7(土)1時50分。もう休みが2日もないことに絶望している。また夜更かししてしまった…。会社始まってから時間狂うと辛いのに。

 

にしてもこの人の作品は本当に……。現代社会人の抱えている鈍くて重いもの、人には言えない自分の核の部分、そういったところを丁寧に丁寧に描くなあ。すごい、この作品は特にどの短編も「分かる」と思う内容だった。この「分かる」は決して女子高生とかが言う前向きな「分かる〜!」ではない。「ああ、このどうしようもなさ、あるよな…分かる…」みたいなズーンとした「分かる」である。

 

わたしの中の永遠のテーマと言ってもいいかもしれない、「どうしようもない事実」これに尽きるかもしれない。わたしは常に他者と自分を比べて劣等感ばかり募らせてた。なんで人から好かれないんだろう?努力ができないんだろう?頭が悪いんだろう?考えることが苦手なんだろう?字が汚いんだろう?何も誇れるものがないんだろう?顔も可愛くないんだろう?金持ちじゃないんだろう?

理想がどうしようもなく高いんだろうとも思う。だってわたしより可愛くなくて頭も悪くてもっと貧乏な人だっている。それでも、私よりも人格も環境も優れている人達がいるのもまた事実だ。そこを追及したってキリがないってわかってるのに、だからこそ、その「どうしようもなさ」がわたしを苦しめる。

 

「大丈夫」としか言えなかった吉川さんの気持ち、すごく分かる。「今すぐ逃げ出したいけどそうしたってどうにもなんないしどうしようもないから大丈夫と言うしかない」んだよなあ。だって、わたしもしんどくてしんどくて全部投げ出したいけど、その先にはまた違うしんどさがあるだけで、結局現実は続いていくんだよ。仕事をやめたってまた働かなきゃいけないし、仮に子供や旦那さんがいたら辞めるなんて選択肢すら選べないと思う。しんどくて辛くてもどうしようもない、逃げれない。だから「大丈夫」って言う。転職した先でも結局はしんどいしんどいと言ってるだろうし、家庭があったらすべてを投げ出せなくて耐えるしかないんだろうし。

 

そう思うと、家庭を持つって自分に枷を与えるだけでいいもんじゃないのでは?と思った。作中で子供が障害児の可能性が高いと診断されていたが、わたしが妊娠したとして障害児の子どもが産まれてくる可能性だってある。健常児で生まれてきたとしても、きっと周りとの付き合いや自分の家庭環境や経済力を周りの家庭と比べて辛くなってしまうんだろう。どうあがいても辛くなる未来が見える。かと言って、1人で生きていく強さも力もない。誰かから愛されるようなキャラクターでもなければ、美貌もないし、どこでも渡り歩けるコミュニケーション能力や仕事ができるわけでもない。こんなないないづくしの私は、どんな道を選んでも苦しくなるのだ。作中の豊川と同じように、逃げて言い訳して後悔して、自分の胸張れない人生になっていくんだと思う。

 

そう思うと、やっぱりどうしても前向きに自分の人生を切り拓ける人間とそうじゃない人間に分かれてしまうと思うんだ。そうじゃない人間が多数なのは分かっているけど、どうしてもそこに妥協することができないでいるんだと思う。羨ましい、やりたいことがあってそれに向かって頑張って結果を出してる人が心底羨ましい。私はやりたいことなんかないし努力をしたくない。留学を決めたあの子も、司法試験に合格したあの子も、みんなから愛されて楽しそうにしてるあの子もみんなみんな羨ましい。その子達はこの作品を読んだらどう思うんだろうか?「分かる」と言うのだろうか?「あー…こういうしんどそうな人、いるよね」とだけ思うのだろうか?あの死にたくなる気持ち、分かるんだろうか?なんかしんどい楽しくない毎日を繰り返して、これがずっと続くのかあと思うともうここでやめてもいいんじゃないって思ってしまうあの感じ。全てがどうでも良くなるあの感じ。経験したことはあるんだろうか?

 

そんなことをぐるぐる考えてると、わたしは「陰」の気を背負っちまってるなあと思う。持たざるもの。人から好かれぬもの。誰にもいい影響も悪い影響も与えぬもの。悲しくなるけど「どうしようもない」のさ。中学の時からずっとそうだった。3人でいれば1人余るし、大勢で行動すれば誰かが私に話しかけてくることはないし、いてもいなくても変わらない存在だった、ずっと。あー、誰の1番にもなれないんだなあと。世の中にはどうしたって話しかける側と話しかけれる側がいて、誘う側と誘われる側がいる。後者にはなれないんだ、どうあがいても。しかもこればっかりはコントロールできないでしょ?他人が考えること,決めることだから。だからどうしようもなくて辛いんだ。相手が悪いわけでもない。いっそ相手を恨めたら楽なのに。

 

こういうずらずら書いた気持ちを朝井リョウさんは鮮明に描くから、辛いけど「分かる」んです。